草原の匂いが胸いっぱいに広がった。
乾いた風が頬をすべり、汗は一瞬で蒸発して消えていく。
空はどこまでも青く、地平線は逃げるように遠かった。
ここはアフリカのケニア、標高1800〜2000mのサバンナ。
シマウマが、遠くで草を食べながらこちらを見ている。
10キロのリュックを背負い、私は230km先のゴールを目指して走っていた。
これは、1年前のわたしの話だ。
2024年9月。「For Rangers Ultra」――5日間で230kmを走る過酷なマラソン大会。
40歳でミッドライフ・クライシスに悩んでいたとき、知人が言った。
「ケニアのサバンナを230km走るマラソンがあるんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、なぜかこう思った。
「面白そう」
……いま思えば、私の好奇心はときどき致命的だ。
サバンナは甘くない
背中のリュックには、5日分の食料、寝袋、救急セット、夏と冬の装備。
日中は30℃の炎天下、夜は2℃まで冷え込む。
暑さと寒さを両方抱えたまま、必要なものすべてを背負って進むしかない。
水は大会から支給されたけれど、ボトルに満たした2リットルのぬるい水は、
「命」と同じくらい大切で重たかった。
サバンナの風は乾いていて、汗は出てもすぐ消える。
足の裏に水ぶくれができて、チームメンバーに教えてもらい、
K-テープだとか、ハイドロコロイドの絆創膏を貼る。
仲間がお腹を壊せば、スープを分け合う。
このとき、リュックの中の薬や救急セットは、
「自分の体は、自分で守るしかない」と教えてくれるものたちだった。

日本に帰って、ふと思った
大会中は「今を生きること」しか頭になかった。
でも、日本に帰ってしばらくして、ふと気づいたんです。
「もし災害が起きたら、あのサバンナと同じになるんじゃないか」
電車は止まり、道路は渋滞し、電気も水も止まる。
水と食料を自分で確保し、何十キロも歩いて移動するかもしれない。
ケニアで背負ったリュックは、そのまま「防災バッグ」になっていました。
軽量寝袋、エマージェンシーブランケット、薬、絆創膏、電解パウダー、浄水タブレット。
非常時に必要なものは、驚くほど少ない。
でも、その“正解”は人によって違う。
更年期世代なら、常備薬やサプリ、体温調整できる服も必須です。
女性なら年代によっては生理用品もいる。
「自分仕様の防災リュック」を作っておくことが、命を守る第一歩です。
そして、もうひとつ大切な気づきがありました。
「歩ける体力は、最強の防災アイテム」だということです。
サバンナで1日40〜48kmを歩き続けた経験から断言できます。
もし災害が起きて、車も電車も使えなくなったら――
歩けるかどうかが、生死を分けるかもしれません。
今から備えるべきは、アイテムだけではなく、体力もです。
サバンナは、私を変えた
サバンナで過ごした5日間は、私の人生を変えました。
体力を超えて、心も揺さぶられ、そして再び、自分を信じる力を取り戻しました。
ミッドライフ・クライシスもどこかへいき、
「次は何をしようか」という好奇心が胸を満たし、
仕事だけでなく、演劇に挑戦したり、新しく三味線をはじめたりもしています。
見渡すかぎりの草原、星降る夜空、シマウマ・キリン・ゾウの群れ、ランナーのみなさん。
あの景色を思い出すたびに、胸の奥に静かな灯がともります。
もしも人生がまた大きく揺れる日が来ても、きっと大丈夫。
サバンナで学んだのは、ただのサバイバルではなく、「想定外を楽しむ心」だ。
あの5日間は、今のわたしの宝物になっています。
永田京子